世界会議の帰り道。最寄りの駅まで歩こうと言い出したのはロシアだった。
いつも車での移動だというのに、どういう風の吹き回しだろうとラトビアは首を傾げたが、 どれだけ考えようとも、それに従うしかラトビアには選択権がなかった。
次の会議の日程が知らされ、解散となった。各々が帰り支度をする中、ロシアは早々と準備を終え、すっと席を立った。

「さぁ、行くよ」
「ぅ、ぁ、えっと…はい…」

やっぱり、歩いて帰るつもりのようだ。ラトビアは周りの国々にぺこりと頭を下げて、会議室を後にした。
歩こうと云うロシアの提案に、正直に言うと、ラトビアはこの提案にあまり乗り気ではなかった。
幾ら北の方の国だからと言っても、寒いのは苦手だったからだ。雪は好きなのだが、それはまた別の話だ。
しかも、今日は朝寝坊してしまった為、きちんと防寒対策が出来ていなかったのだ。
一方ロシアはと云うと、軍服の上にコートを羽織り、更にトレードマークのマフラーに革の手袋まで着け完全防備だ。
数十分とは云え、真冬の寒空の下をロシアと一緒に歩くのだ。多少、いや、かなり億劫になりながら、一歩外に踏み出した。

「わぁっ…!」

扉を開いた瞬間、目が眩むような光がぱっと視界一面に飛び込んできた。
長い会議の間に積もってしまったのだろう。地面には真っ白な雪の絨毯が敷かれていた。

「すごいっ、雪だぁ…雪です、ねぇ、っ――…」

思わず後ろを振り向いてこの喜びを伝えようとするが、一瞬だけラトビアの表情がびくりと固まってしまった。
その視線の先にいたのは、エストニアやリトアニア、ポーランドではなく、ロシアだったから。
分かっていた筈なのに、ひどく悲しいような申し訳ないような気持ちになった。
幼い頃いつも一緒だった兄達は、今はもう遠い存在になってしまったように感じてしまう。
ロシアへ身売りした自分が、容易に近づいていい存在ではない。そう自分に言い聞かせていた。
それでも、ほんの少しだけ沈んでいた気持ちも、大好きな雪を見ていると晴れていく気がした。

「あんまりはしゃがないでよ、どうせまた…」

転ぶんだから、と続けようとする前に既に転んでいたんだから、もう為す統べもない。
運悪く雪に埋もれていた落ち葉に足を取られ、思い切り尻餅を搗いてしまった。

「あぁ、もう。耳まで真っ赤にしちゃって…」

ぺたりと地面に座り込むラトビアの前に、ロシアがしゃがむ。
ぐっと近づいたロシアとの距離に、思わず身体が震え出してきた。
ラトビアがドジな自分を呪っていると、ロシアの手が、ラトビアの赤くなった耳を撫でるように塞いだ。
ふと、ロシアと目が合う。徐々に深く絡み合う視線。
思わず瞳をぎゅっと閉じると、鼻先にちょこんと何かが当たるような感触があった。
ロシアの両手は、ラトビアの両耳を塞いでいて。と、なると考えられる原因は一つしかない。

「ふぇ…っ?!」

顔中に熱が集まっていくのが分かり、思わず鼻先と口元をぱっと隠してしまった。
寒くて赤くなっているのか恥ずかしくて赤くなっているのか分からない。
きっと、両方なんだろうけれど。冷えきった指先が熱を持った肌を冷ましてくれるようだった。

「ん…君、手袋は?着けないの?」
「あ、その…えっと、朝から、着けてくるのを、忘れちゃって…」
「ふぅん…」

手袋をしていなかったラトビアの両手の指先は、冬の寒さで痛々しそうに赤かった。
またロシアの機嫌を損ねたのではとラトビアは身体を強張らせたが、
ロシアは興味があるともないとも云える表情をして、左手の手袋だけを外し、ラトビアの目の前へぱさりと落とした。
それを咄嗟に受け取るが、恐れ多いやら何か裏がありそうで怖いやらで動けずにいると、ロシアが急かすように着けなよ、と促した。
その一言に小さな身体をびくりと震わせ、かじかむ指先を必死に動かし、ロシアから渡された手袋を着けた。
案の定、サイズがラトビアとは違いすぎて指先がかなり余っていたが、それでも寒さを凌ぐのには十分すぎるくらいだ。

「さぁ、帰るよ」

ロシアから渡された手袋は片方だけ。こんな歪なまま帰るのかと戸惑っていると、
先に立ち上がったロシアが左手でラトビアの右手を掴み、半ば強引に立たせた。
ラトビアの右手はそのまま、ロシアの上着ポケットへと収まった。

「これなら、寒くないでしょ?」

満足そうに問われ、ラトビアは俯いて小さくはい、と頷くと、ロシアは機嫌良さそうに歩き始めた。

並んで歩き始めて数歩。隣からくんっと引っ張られるような感覚がして、すごく歩きにくい。
ロシアとラトビアの身長差や足の長さを比べてみると理由は分かりきっていた。
普通に歩いたところで、二人の歩幅が会うことなんてまずない。
それでも、ロシアの歩幅に必死に合わせようと努力するラトビアの姿がいじらしかった。

だからだろうか。ラトビア、もうちょっと早く歩いてよ、と言おうとして口を噤んだ。
ただ歩きにくいだけであって、特に急ぐ理由も意味もなかった。今日の予定はこの会議だけだったから、
この後は何も予定は入っていなかった。時間を気にせず、好きに過ごせるんだ。
試しに、ラトビアの歩調に合わせるようにゆっくりと歩いてみると、いつも簡単に流れていた景色が、鮮明に映るような気がした。
夏は日陰を作っていた木々の葉も散ってしまっているけれど、その中では確実に春を迎える準備をしている。
広場の真ん中には、大きな噴水があった。ベンチには、仲が良さそうな親子が座っていて、
その近くを犬を連れた老夫婦が、お互いを気遣いながらゆっくりゆっくりと歩いている。
楽しそうにおしゃべりをする小鳥、花壇に植えられた小さな花、広場を駆け回る子供達。

ラトビアはいつも、こんな景色を見ていたんだ。
綺麗なものは綺麗なままに、鮮やかなものは鮮やかなままに、その大きな瞳に映していたんだ。

「ぁ、えっと、ロ…ロシア、さ、ん…?」
「何…?」
「その、えっと、ど…どうし、て…その、」
「好きだからだよ」
「え…?」
「君が、雪を好きって言ってたから。それだけ」

ラトビアが雪が好きだと言っていたから、その雪を一緒に見たかったから。
ただ、何の変哲のない道を、ラトビアと一緒に歩きたかったから。
その冷え切った小さな手のひらを温めてあげたいと思ったから。
繋いだ手に優しく力を込めるロシアの表情は、何処か穏やかだった。
目が合ったわけでも、抱きしめられたわけでもないのに、やっぱり、頬に熱が集まっていた。
そして、繋いだ手も、どうしようもないくらいに熱かった。

ロシアさんの手は、大きい。ロシアさんの手は、強い。そして、すごく、温かいんだ。
いつの間にか、寒さからくる震えも恐怖からくる震えも治まっていて、
心の奥の奥からあたたかいものがじんわりと滲んで、ほんの少しだけ泣きそうになっていた。

いつの間にか、ただ繋いだだけの指先が絡み合っていたのだけれど、わざと気付かないフリをした。
どうしてだか分からなかったけれど、ただ、今は、この指を離したくなかったから。